この記事は、私がAIと対話して「なるほど!」と思った内容を公開したものです。
近年、日常的にAIツールで相談することが多いですが、非常に有益に感じる回答も多くなってきました。そこで気になった話題の質問と回答をブログ上に記録します。必要に応じて関連リンクや画像、Xの投稿なども添付しています。
使用AI:ChatGPT
使用バージョン:GPT-5.6 Sol 非常に高い
なお、AIの回答には未確認の情報や解釈が含まれる場合があります。
Contents
今回の質問
国鉄型の急行用気動車車両として、キハ58系列が知られているわけです。この車両は通常はローカル線、地方の山々の地域で使われていたと思いますが、実は上野駅にもかつてやってきていた歴史があるそうです。上野駅にもこの気動車のキハ58系列の車両が入ってきていたことを知りたいのですが、一体いつまで入ってきていたのでしょうか。また、車両の数は11両などの情報がありますが、どうなのでしょうか。そして、これは急行奥くじという名前で知られていたりしますが、どうなのでしょうか。路線や背景知識も含めて教えてください。
AIの回答
はい。国鉄時代、キハ58系列は定期列車として堂々と上野駅まで乗り入れていました。しかも末期の珍運用ではなく、長年にわたる定期急行です。その代表が、ご認識のとおり急行「奥久慈」でした。
そして調べていくと、かなり面白い列車です。上野では最大級の11両編成のキハ58系列が見られ、水戸で分割され、その一部が水郡線の山中へ入っていくという、いかにも国鉄らしい「多層建て急行」でした。
まず、キハ58=ローカル線用、ではありません
ここは最初に認識を少し修正した方が、キハ58の面白さがよく見えてきます。
キハ58系は晩年に地方ローカル線の普通列車でよく見られたため、その印象が非常に強いのですが、本来は1961年に登場した「急行形気動車」です。非電化だった全国の幹線を走る長距離急行を近代化するための車両で、東北・中央・北陸・山陰・四国・九州など、全国規模で投入されました。約1800両もの一大系列でした。トレたび
つまり、
山奥を2両くらいで走っている古い気動車
という姿はむしろ後半生です。
全盛期には、
国鉄色のキハ58・キハ28・キロ28が10両以上連なって、上野駅を発車する
という光景が普通に存在しました。TOMIXの実車解説でも、常磐線の「ときわ」「奥久慈」は上野―水戸間で10両以上の長大編成となり、首都圏で最後まで残ったディーゼル急行だったとされています。TOMIX資料
これは現在のキハ58のイメージからすると、かなり衝撃的です。
急行「奥久慈」とは何だったのか
基本ルートを単純化すると、
上野
↓ 常磐線
水戸
↓ 水郡線
上菅谷
↓
常陸大宮
↓
袋田
↓
常陸大子
↓
磐城棚倉
↓
磐城石川
↓
場合によっては
郡山
という列車です。
さらに上菅谷から分岐して、
上菅谷 → 常陸太田
へ向かう編成まで存在しました。交通新聞社系の「トレたび」でも、「奥久慈」を上野―常陸太田・磐城石川方面を結ぶ水郡線の代表的な急行として紹介しています。トレたび
つまり今の感覚なら、
東京の上野駅から、袋田の滝のある奥久慈地方へ、乗り換えなしで気動車急行が走っていた
わけです。
これだけでも相当旅情があります。
なぜ電化された常磐線をディーゼルカーで走ったのか
ここが「奥久慈」の仕組みの核心です。
上野―水戸間では、
急行「ときわ」+急行「奥久慈」
として一緒に走りました。
そして水戸に到着すると、
「ときわ」→常磐線方面
「奥久慈」→非電化の水郡線方面
に分割します。
「奥久慈」はその先の非電化区間へ行かなければならないので、最初からキハ58系列を使う。そのため、相方となる一部の「ときわ」までキハ58系列になりました。TOMIXも「奥久慈」を併結する関係で「ときわ」の一部にキハ58系が存在した、と明記しています。TOMIX資料
つまり上野から水戸までは架線が張ってあるのに、
ガラガラガラ……というディーゼル音を響かせてキハ58が走っていた。
いわゆる「架線下DC」です。
1985年3月9日、廃止直前の亀有で撮影された「ときわ・奥久慈」のキハ58系の写真も残っています。D51498.com
「11両だった」という話は本当です
本当です。ただし「奥久慈単独が11両」ではありません。
たとえば1982年11月15日改正時の編成資料を見ると、上野発の列車に、
1〜11号車=計11両
というキハ58系列編成が実際に存在しています。編成資料
一例が急行「ときわ15号・奥久慈3号」。
上野―水戸では、
11〜5号車:ときわ15号 7両
4〜1号車:奥久慈3号 4両
で、
7両+4両=11両
です。編成資料
しかも全部が単なるキハ58ではなく、
- キハ58
- キハ28
- キロ28(グリーン車)
まで入っています。編成資料
したがって上野駅では、
国鉄急行色のキハ58系列11両、その中にグリーン車まで入った長大編成
を見ることができたわけです。
これは相当格好いいです。
ちなみに編成は時期によって一定ではありません。TOMIXが模型化した別時期の「ときわ+奥久慈」は10両編成として再現されています。したがって「10両だった」という資料と「11両だった」という資料は矛盾ではなく、時期・列車によって編成が違ったと見るのが正確です。TOMIX製品ページ
しかも水戸で終わりではない。「分割」がさらに続く
これが国鉄急行らしくて実に面白いところです。
先ほどの1982年「奥久慈3号」の場合、
上野
↓
11両
水戸
↓
「ときわ」7両を切り離す
↓
「奥久慈」4両
さらに、
上菅谷
で再び分割します。
4〜2号車は
→ 磐城石川方面
1号車は
→ 常陸太田方面
へ向かいました。編成資料
つまり1本の11両編成が、
上野では一本
↓
水戸で二つ
↓
上菅谷でさらに分かれる
という運転をしていたわけです。
これはまさに国鉄時代の多層建て列車の世界です。
「奥久慈」はいつから上野に来ていたのか
「奥久慈」という列車自体の歴史はキハ58より少し古く、1961年10月1日に上野―磐城石川間の準急「奥久慈」が定期化されています。興味深いことに、この時点の編成資料ではまだキハ26系となっています。編成資料
その後キハ58系列が進出し、1964年の資料では「奥久慈」「久慈川」「スカイライン」にキハ55系・キハ58系が使用されています。編成資料
そして1966年、国鉄の準急制度変更によって「奥久慈」は準急から急行へ昇格。その後「久慈川」なども整理・統合され、水郡線を代表する東京直通急行として残っていきました。Wikipedia 水郡線
ですので、
1960年代前半:旧世代気動車からキハ58系列へ移行
↓
1960〜70年代:急行「奥久慈」の全盛期
↓
1980年代:徐々に縮小
という流れです。
では、キハ58の上野乗り入れはいつまでだったのか
ここが一番知りたいところですね。
定期急行「奥久慈」としては、1985年3月13日が最後です。
翌日の
1985年3月14日ダイヤ改正
で「奥久慈」が廃止されました。編成資料にも「昭和60年3月14日ダイヤ改正より急行『奥久慈』を廃止」と記録されています。編成資料
1985年3月13日まで
上野・常磐線ではキハ58系列による定期急行「ときわ・奥久慈」を見ることができました。
廃止わずか4日前の1985年3月9日に亀有を走るキハ58系「ときわ・奥久慈」の記録写真まで残っています。D51498.com
ただし1983年以降は、少し変則的です
「奥久慈」の歴史を調べると、「1983年廃止」と「1985年廃止」という2種類の記述が出てくることがあります。
これは理由があります。
1983年6月、水郡線内の急行運転が終了し、水郡線では普通列車に格下げされました。しかし「奥久慈」という愛称と上野からの直通自体は残り、1985年3月まで運行されたのです。トレたび
ですから、
1983年
→ 水郡線内で「急行」として走る奥久慈が事実上終了
1985年3月
→ 「奥久慈」という上野直通列車そのものが定期列車から消滅
と整理すると分かりやすいです。
さらに「最後の上野キハ58」は1985年とは限らない
ここも注意が必要です。
1985年3月はあくまで定期「ときわ・奥久慈」の終了です。
その後も臨時列車としてキハ58系列が上野に姿を見せた例があります。たとえば1988年5月3日には、上野駅11番線で臨時急行「奥久慈51号」のキハ58系列編成が撮影されています。
したがって、
「定期列車としていつまで?」→1985年3月13日
「キハ58が最後に上野駅へ入ったのはいつ?」→1985年より後にも臨時列車があるので別問題
です。
時系列にすると、こうです
| 時代 | 「奥久慈」と上野 |
|---|---|
| 1961年10月 | 上野―磐城石川の準急「奥久慈」が定期化。当初はキハ26系(編成資料) |
| 1960年代前半 | キハ55・58系列へ移行(編成資料) |
| 1966年 | 「奥久慈」が準急→急行へ |
| 1968年以降 | 「久慈川」などを整理し「奥久慈」2往復体制へ(トレたび) |
| 1970〜80年代初頭 | 「ときわ」と併結し、上野―水戸では10〜11両級のキハ58系列長大編成(TOMIX資料) |
| 1983年6月 | 水郡線内は普通列車化。「奥久慈」は縮小しながら存続(トレたび) |
| 1985年3月13日 | 定期「ときわ・奥久慈」最終日 |
| 1985年3月14日 | ダイヤ改正で「奥久慈」廃止(編成資料) |
| 1988年など | 臨時「奥久慈」でキハ58系列の上野入線例あり |
この列車、かなり「上野駅らしい列車」だったと思います。
現在の上野駅からは想像しづらいのですが、国鉄急行色のキハ58系列が11両も連なり、グリーン車まで挟み、上野を出て常磐線を高速で走り、水戸で編成を切り離し、その一部が袋田・常陸大子の山中へ消えていく。さらに上菅谷で常陸太田行きまで分かれる。
キハ58を「地方で余生を送った古い気動車」とだけ捉えると見えない、本来の急行形気動車としての華やかな姿が、まさに「ときわ・奥久慈」だったわけです。トレたび
そして今の上野駅で国鉄時代の痕跡を探すという観点なら、この「キハ58がいた上野」を掘るのはかなり面白い題材です。どのホームから発着していたのか、当時の上野駅構内で485系「ひたち」や583系などとどんな並びが見られたのかまで調べると、現在の上野駅の見え方がかなり変わってきます。
