『常識は、既に或る信仰である。』

お疲れ様です。だにえるです。

最近、ある言葉を聞き印象に残りました。ちょっと立ち止まって、言葉を観察してみます。

『常識は、既に或る信仰である。』

これは日本の哲学者、三木清(1897〜1945)の言葉だそうです。

言葉に出会ったきっかけは、NHKの『ここは今から倫理です。』というドラマでした。番組タイトルのとおり、倫理、価値観、他者との関わり方、自分の生き抜き方について考えさせられます。

詳しく解説してくれるサイト

下記リンクはNHKのスタッフブログです。この言葉の意味が詳しく語られています。
「仮説について」という文章中に出てくる言葉なのだそうです。

神戸先生に聞いてみよう⑦〜常識という名の信仰〜

また、下記のサイトでは三木清『哲学入門』の文を掲載してくれております。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/43023_26592.html

こちらでも似たような言い回しが出てきました。上記サイト内の「五 常識」の中で出てきます。

常識は探求でなく、むしろ或る信仰である。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/43023_26592.html

NHKスタッフブログさんで紹介している箇所と同じかなと思ったものの、上記の文章内に「仮説について」は出てきません。
原文はどこに或るのでしょうか。ちょっと不明でした。

わかったら追記しようと思います。

自分なりに考えてみた

三木清の真意とはズレまくるかもしれませんが、自分なりに考えてみました。

『常識』と『信仰』の意味

この言葉を聞いたとき、僕は『常識』と『信仰』という言葉に注目しました。

常識とは?

常識とは、社会を構成する上で当たり前となっている、あるいは当たり前とされていることですね。
それぞれ個性を持つ多くの人々が、共に同じ場所で、社会生活を円滑に行っていく上では共通のルールや慣習が必要。あるいはあったほうが便利です。先人の知恵が形になったものとも言えます。

これらが『常識』の意味するところかと思います。

信仰とは?

また、信仰とは絶対視すること。主に宗教などを対象に用いる言葉なのかなと思います。個人的には、科学的な事実やエビデンスに基づかなくとも、かなり強く信じている状態をイメージしてしまう言葉です。

常識は信仰か?

「常識を信仰する」とは、一般的には言わない表現ですね。
この言葉が意味するところは、

自分の周りに最初から用意されている結論に対して、無条件に、盲目的に絶対視すること

なのかと思います。
そして、これはその通りかと思います。なぜなら、

  • 人は生まれながらに特定のコミュニティに属することになる
  • コミュニティには、既に常識(先人の知恵)が存在している
  • コミュニティに属する人々は、お互いに常識を共有することで円滑に生活している

上記のとおり。

基本的に、人はコミュニティの中で生まれ、自動的にその中で生活を開始します。
コミュニティで円滑に生活するためには、そのコミュニティ内での判断基準があったほうが便利です。判断基準とは、先人たちが日々の生活を積み重ねることで形成されていったもの、つまり『常識』ということでしょう。

『常識』の反対語は、常識ではないもの。つまり『非常識』になるわけですが、

コミュニティ内の生活で『非常識』を拠り所にすることは、他の多くの人々と同じ枠組みを共有しないことです。

よって円滑に生活できなくなることを意味します。非常識を持ち出す場合には周囲とギクシャクするはずです。

ギクシャクしない生活を選びたいなら、自ずとコミュニティ内の『常識』が絶対的なものとして刷り込まれるのでしょう。つまり、「常識を信仰する」状態になっていると言えます。

「常識を信仰する」ことの弊害

コミュニティの中で円滑に生活するために必要な常識。

便利な一方で、弊害も生み出します。

  1. 別のコミュニティの『常識』に寛容ではなくなる
  2. 自分の活動の幅に、制限を課す

弊害とは、大きくこの2点かなと思います。

1.については、自分と全く考え方が違う他者に対して、否定的になったり攻撃したり排除しようとすること。自分の拠り所としていた常識が脅かされたり覆されることは、生活全体に不安定さをもたらすので、これは当然の反応といえます。
受け入れないだけならまだしも、マイノリティに対して自分たちの価値観を強制したりすることも或るでしょう。

2.については、常識にとらわれるあまり自分を無個性化してしまうことです。
人はそれぞれ得手不得手があって、好きなコトモノも多種多様に及びます。しかし、常識というフィルターではそれらが埋没させられてしまい、色々と諦めさせられてしまう恐れが常に或るということです。
もっと活躍できる場があるかもしれないのに、みんなと同じ方向を向いて前ならえをすることが、暗黙のうちに強制されている状況のなんと多いことか。
同じレールに乗っかる。これによって安定はもたらされるだろうけど、みんなと同じもの以上の何かは手に入らないでしょう。

人として生まれた以上、自分だけの感性を尊重して素敵な人生にしたいものですが、これでは難しいように思います。

常識とは、1つの考え方

上記の弊害は、結局、思考停止状態だから生じるのかなと思います。

そして、ここまで考えると『常識』というものは絶対的なものではなく、考え方の1つに過ぎないことがわかります。

その常識をなぜ拠り所にしているか、結局自分で普段から考えることこそが、大切なのかと思います。

そうすることで、『常識』と折り合いをつけることができる。
別の視点からの考えを取り入れることができたり、自分の行動の幅も広げることができる。

当たり前だと思うことついては、当たり前過ぎて最初から考えるのを放棄しがち。
だからこそ、自分で意味づけしていくわけですね。

常識を尊重しつつ、自分らしく生きる

一方で、人間社会で生きる以上、既に或る常識を完全に無碍にすることはできないでしょう。

常識に配慮は必要です。しかし、自分の頭でも考えて、常識と折り合いを付けつつ自分の人生を最大化することこそ、幸福に繋がるのではないかと思いました。

常識に配慮しつつ考え抜き、自分らしく生きていきます。

今回は以上です!

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